報われない現代の音楽作家を考える – ongakusato最初に書いておくと下記のことは概ね日本という場所において記述している。
他国の在り方はまた違うと思うが個人的に良く知っているわけではないので、書くことができない。

作曲家は現在報われない職業の一つである。

私は大した実績もないのだが、ここにこうして私程度の作家が持つべきメンタリティについて思うことがあると書いておく。なおかつ、現存のシステムについて変えるべきと連句してもその具体策を提示し得ないことが現場の実情としている現在に、一つのたたき台として文言化をする動機となったと書いておく。

これは私がある一つの精神的ラインを通過したという、一種の指標である。

最初に報われない職業であると書いたが、漠然とした他者と比較して見て不幸であるというとではない。
むしろこの報われないという言葉は、ある個人が作曲家として希望する地位や名声等がほぼ完全に夢想であるということである。
どんなに苦しい思いをし、失敗をしても、それが作曲家一人の責任で方がつくならばそれは理想郷のような職業だと考える。
この意味ではどの種類の作家であっても同じことに言えるのではないかと思う。
修練し研磨した技能を持って、作品を作り、これを売ってお金に変え糊口をしのぐ。これによって身が立つ者は、それが例え人を殺す技能であっても誰であれ幸せである。

何が報われないのか。

それはこの職を志した、最初の段階で描くであろう幻想において報われないのである。
まず、制作において高い技能を得ることが第一の目標になり、そのために邁進する。
この過程で、概ねに「良い音楽」という指標を得ることになる。しかし、この指標が暫定的であることを本質的に認識することはほとんどと言っていいくらいにない。
個人において、技能を下支えするものは「良いとは何か」という指標である。言わば作品を作りの哲学である。
そして社会的な「作家=芸術家」という軽薄な美辞麗句にさらされることで、この哲学を裏打ちできたと誤解する環境である。

どんな時代であれ、こういった個人の甚だ浅薄極まりない自身への誤解において、報われることは一切ない。

しかし、同時に作家として生きる初期を脱した頃、おそらくアマチュア時代を含めて10~20年をすぎた頃から、この哲学というものがどれほど重要かを思い知ることになる。
良き師匠につき、最良の言葉を浴びて自身を育む事ができているなら、このことについて師匠から聞くことができるだろう。
変化する社会において普遍的な音楽を作ることに四苦八苦するのが作曲家である。
おそらくあらゆる作家が現在の動向を察知しそれに対して、より愛される楽曲を作ろうと精進を重ねている。この無限大に等しい表現手段の中で、作品に対する哲学を失えば楽曲は出来上がらない。
この何が最良であるかという問いに対して、最初の指標をなくす必要と日々新たに指標を積み直していかなくてはいけないことにおいて報われないのである。

山に登り、ケルンを一つ積み上げて帰ってくる。このケルンは時間の風雨によって瞬く間に消えて行く。また別の山に登り、ケルンを一つ積み上げてまた帰ってくる。
これを繰り返す。そして山を登り始める直前にその険しさを察する様になる。このあと積み上げるケルンがどうなっていくのかを察するようになる。

ここまできて未だ作家の道の開始地点に立っただけだと気がつく。
名もなき作家はこの絶望において報われないのである。

時代。

現在は70億を超える人間の直接、間接問わない多くの努力によって音楽のみならず限りない分野で新しい技術が、次々に出現してくる。
楽器を作る技術は進歩し浸透し良い楽器がたやすく手に入るようになった。そしてその楽器を用いて作曲することの容易さを皆が知っている。さらにいえば容易に組み立てていける音楽の部品もすぐに手に入る。
今存在する音楽さえ部品化することができる。著作権という垣根はあるがこれを飛び越えることは簡単であるし、この著作権の在り方もそう遠くない未来に変わるのである。
恐らくコンシューマーに向けての楽曲は作品としてはシェアウェアになり、作家の活動はドネーション、投げ銭を受けることが多くなるはずである。

さらに、ある種のまとめ買いから、youtubeの再生回数のような数字をもとに再配分されるシステムの中に組み込まれることもある。

映画をはじめとした音楽の商用利用は微々たる制作手数料を受け取り、作家個人がその使用料をコントロールしていくことになる。
すでにこの辺りのことは整備が進み個人が著作権信託先を選べるようになってきている。著作権の管理をしているところは検索して頂ければ、すぐに出てくる。
最終的に信託となったとしても、クリエイティブコモンズやMITライセンスのようなオープンソース系の管理になったとしても、これらを選択する幅は極限まで増えていくだろう。とにかく自分で選びだす作業が必要になってくる。

作家個人で販売することについては2010年に話題になったまつきあゆむさん、DIYレコード、OTOTOY、クリプトンが運営しているRouteR等、
最近はあまりそう言った世相のようなところは見ていなかったが、私としてはもっともっと同様のサービスを行う業者が出てくるべきだと考えているが、ガチガチの権利ビジネスである音楽は、まだまだ越えるべき峠がいくつもあるようだ。
違法ダウンロード罰則化などは顕著な例である。
実のところ「コピーし、コピーされたものを読む」というものは、言うまでもなく印刷技術発明以来情報とよべるものは基本的にそれが前提である。
誰もがその技術を享受できるようになれば良いという理念が根本である。
そして今日音楽はデータという意味で情報である。
商売は他者が容易に生産できないものを売るから成り立つ。技術的にすでにかつての手法での商売は成り立たないのである。
この点でも音楽作家は報われない。
成果物が買われないからである。

オリコンの3位が693枚しか売れていないという記事があった。デイリーランキングだがこの数字をとったのが、ライブパフォーマンスに主軸を移したB’zであるというのも諮詢に跳んでいる。

先に少し書いたがyoutube、spotifyturntable.fm、先日発表のあったSMEの音楽定額配信などまずお金を支払った上で好きなだけ音楽を聴き、掛け合わせられる様なサービス等、定額制の中から再生数に応じて支払われるという形態での楽曲販売は世界的に加速している。

しかし日本では印税に関する法的な扱い方が、近年の著作権法改正に関わるすったもんだを見ていると容易ではない。

現代の技術的な問題をいえば、別の面がある。
先に述べたとおり、皆作れるのだ。根本的に作曲は簡単である。知人の言葉をかりれば、12個しか扱うものが無いので単純なのである。
12個のものをどう扱うかについても氾濫飽和している。
音楽の楽しみ方は、聞くことより参加することの方にシフトしてきている。
楽器を持って演奏し、拙くても自分の曲を、自分が参加した楽曲を聞いてもらえることは幸せだ。この幸せを追って我々は作曲を続けている。
しかし、誰もが自分の曲を聞いてもらいたいので、見も知らぬ作家の曲など聞きたくない。
同じ原因でまたも報われない点が出現した。

この報われない作家はどうしたらいいのだろう。

作家活動などやめてしまう方がいいのだろうか。

数年以内に売買に関する状況は変わるだろう。
これは同じ議論が既に十年以上続いていること、音楽を売るという立場で新しい試みをしている人たちはすでにたくさんいる。やろうと思えばiTunesでもすぐに音楽が販売できるし、坂本龍一は世界を公演してまわり、その日の演奏を翌日には販売しているが、これはもう一昨年の話である。

しかも、もうすでに正規品を買うという事は、アーティストに対する貢献であるという認識が目に留まるようになってきた。

AKB48などがわかりやすいが、所謂ファンを対象とした、「アイドルによる搾取」である。
正直、このような呼ばれ方は私にとっては喜ばしくは映らない。世間的にも冷ややかな印象である。そしてこれを取り上げるメディアも基本嘲笑しているのである。
だが、現実的で有効な方法として単純に正規品購入がそのアーティストに対する貢献というマインドが浸透している。これ自体は新しいことではない。
良いものを作り店先に並べ、見て聞いてもらい、家に持って帰ってゆっくりその品物を味わってもらえるように努力するということである。
これをアイドルというテーマで行うということを秋元康氏が考えていたことなのかどうか、機会があれば聞いて見たいと思っている。あるいはそのような談話が何処かにあるかもしれない。
アイドルにファン達はとても冷静に行動しているようにも見える。
会場の前線で独自の合いの手を次々に繰り広げ、イベント単位で会場を温め、尚且つアイドルとしてステージにあるものをすべてサポートしながら、自分の応援するアイドルになればさらに強く声を上げる。
「こわい」とか「キモイ」とか簡単に言ってしまうこともできるが、勝つてのテレビアイドル全盛期、松田聖子や工藤静香といった(ここで色々な方々のお名前を列記できない、底の抜けた記憶力を許してください。)華麗なアイドル達をアイドルたらしめた文化が、営々と継承され続けていることは驚愕に値するし、あえてそのように行動しない人達は何をしてステージ上の寵児たちとコミュニケートするのか。拍手すれば良いのか? 会場を去る時に「良かったねー」と仲間と交流するのも大事ではあるが、双方向コミュニケートがより身近な時代にそれだけでいいのか? モニター越しでいいのか?
と、深く深く考えてしまう。

さておき、制作する者は変わらずひたすら良いものを追求すれば良いのである。
変わることといえば、より人と接すること、作家と成果物のファンの距離は果てしなく近づいた、もう隣の席に座ったものが語らうように近い。これは重大なことだがこれだけのことである。

パッケージが持つ意味はこのように変わった。

データとして欲しければコピーできるが、パッケージを買うことはより親密にその人と語らうチャンスを買うことだと。

リスペクトなどという軽薄な言葉は使いたくはないが、確かに敬い合う間柄になれる。
知人はかつてのメディチ家をあげてそのような巨大な資本を持つパトロンがいなければ文化活動などは成り立たないと言っていた。
ある意味真理である。文化事業と総体を考えれば、一つの時代を担う力は巨大なパトロンにしかないかもしれない。
しかし、市井の八百屋が生活できるのはパトロンが巨大であるからなのか。
「報われない哲学のケルン」がここで力を発揮する。
音楽が誰のものであるか、言ってしまうと皆のものであると理解できれば皆のことを思いながら作ることができる。
使いやすい製品なのか、自分自身をさらけ出し狭くても価値のある作品なのか、登山直前にこれらを思い返すことができれば、作家としては先に進める。
パッケージを買うことで自分自身になにがしかをかえしてくれると信じられる。
彼らもまた生きている限り、同じようにパッケージを差し出さざるを得ない。その時にこのようなコミュニケーションがあると分かっているからだ。

農家がいい野菜を作り農家同士で買い合っていては生活できないという議論に返答できなかったこともあるが、今は農家しかいない世界ではないと答えられる。

参加することが幸せならば参加する場を提供することもできる。
ニコニコ動画やNETDUETTOは参加すること注力して開発されている。
ドワンゴが旧ベルファーレ跡地に双方向コミュニケート型ライブハウスを開いていることもそう言ったことが重視されてのことだ、技術化されて我々が隠匿できる物など少ない。
一子相伝の奥義は夢のまた夢であるし、自分で開発した技術もすぐに誰かの物となる。
であるなら、アトリエを開放してしまい、そこにくるものとコミュニケートしながら何かを作っていることを見せてしまえば良い。

職人的作家に報いるのは、製品を愛してくれる新たな友人以外には、技能だけなのだ、金や名声などではない。私個人が持ち得るわずかな技能だけを信じて、間違いながら進むしかない。
ただ職人の一人として腕を磨き、技を練り上げ進しかない。

そして、より緊密に同業の作家同士がつながりあい、その場で制作をできる具体的な工場が必要なのではないかと考えている。
いわば、職人的オフィスシェアである。その場にいる者が仕事をする。
そして、その場にいるものでチームワークすることもできる。
場の管理者はその中の仕事の進行もする。そして、場の管理者はチームをマネジメントすることでマージンを受ける。
職人はそれ以外に電気代などの実費も負担する。
機材については、考える必要があるが貸出システム、オール自前機材あり方は様々考えられる。
大事なことは色々あるが、モンパルナスのカフェがそうであったように、簡単でいいのでその場にいる者が休息し会話できる場所が併設されていること。一番重要なことは、現実的な工場であることで、この場でこれからこの職を志す人達に素早く指針を与えられるこ、作家同士のコミュニケーションによって制作の瞬間に制作物のボトムアップができることだ。
一人の職人として効率的に技能をあげることができ、なおかつ技法の集積が可能である。

制作家集団である会社は存在するし、その場でこれらのことが現実化している場所もあるだろう。
端的に美術系大学は収入源がないこと以外は理想的にこの場を提供しているし、そうでなければ大学でない。
この考え方は、それぞれの調子がいい時、平たく言えば稼げている時は機能しないだろう。
次いで徒弟制度が機能する場合も同様だし、必要ない。

だが、現在はコンテンツ業界に強者はいても勝者はいない。
苦しい状態を抱えている人がほとんどなのではないかと思うが、その窮状の原因の一つがコンテンツ業界がより安全に後進を育める場を提供できなかったからではないかと考えている。
この業界の現場はハードだ。
「好きでやっているのだから、自業自得」と半ばやっかみも含めて、そのままにしている現場以外にはあまりあったことがない。
唯一、ある程度歴史と資本を確保できている一握りの会社だけが、是正を試みている。
しかし、これらに会社も歴史が抱えてきた人材をどう食わすかと言った難題に直面している。
後進を育てるいとまがなく、専門学校があっても現場で通用しないことがままある上に、本質的に一人勝ちしたい欲求が抑えられることが少なかったのではないか。
後進は育てられない。

これらを、その場しのぎであってもある程度解決できるシステムはありうるだろうか。
もっとも、現在を頂点としてゆっくり後退していくことが現実化している人間という、弱肉強食の中ではこんなことを望むことはないのかもしれない。

後進を含めて考えるなら、ジムや道場といった考え方もあるだろう。

あるジムにお金を払い通うことで、音楽の技術を学ぶ。この中で一定の基準に達すると、例えば音楽でお金が貰えた、仕事が成り立った等であるが実績がつけば先輩として後輩に教えることが出来る様になる。当然ジムから講師料が支払われる。リハーサルスタジオの部屋単位でなくとも車座単位でこの先輩による後進の指導が行われる。後進から見れば現実的な実技指導が受けられる上より仕事を受ける可能性が増える。先輩から見れば指導料が貰え、必死にアンテナを張って探すべき新しい視点、チャンネル等が得られる。ジム経営者は経営利益を得て、なおかつ人足を得ることが出来る。マネージメントの新しい方向性も出てくる。

このようにして、「買わない」ということの理由を「参加したい」と読み解けば違った音楽の販売方法を試すことが出来る。

作家としてある技能は作り続けるだけで終わらないのだ。

ヴェーバーであれば Denn noch! と言わざるを得ず、まだまだ報われないからといって早々に立ち去るべきでないのである。

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