仕組みは自らを稼働させる存在がなければ存在を顕せない – ongakusatoあ…ありのままを話すぜ!
な…何を言っているのかわからねーと思うが…

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夢を見た。
何度も何度も。
高次の存在が戦う夢であるが、これは体験としてその高次の存在として戦うことと、その高次の存在が戦う映画を作っている自分という体験を、それぞれ要所々々で交互に見た。
高次の存在。彼らは神や悪魔である。
故にその戦い方は、所謂能力系漫画小説等と同じで、およそ想像できるあらゆる方法を駆使して戦う。姿形はデビルマンとかまどマギとかそんなところでだいたいあってる。
制作に関わる方はおよそ想像できる現実的な方法を駆使して制作する。

それぞれは、その目的のために方法論を駆使するわけだが、二者の視点を、何度も繰り返すことによって、それぞれが進化しより苛烈で効率的に目的を達する過程を見た。

面白いのは、高次の存在は物語りの中の存在であるが、主観を持ち、主体的に戦うわけであるが、進化する前の以前の戦いで失敗し、駆逐され存在そのものを滅ぼされた、あえて言うと前世の記憶を今世今生の記憶と全く同じ状態で持っている。
特に悪魔であるもの達は、現象として存在する他に憑依してある者を介して戦い、その者の記憶さえ取り込む。だからこそ、次の戦いがあることを経験的に知っておりその失敗を克服して次の戦いに際しての戦略変更をする。
そして、その戦略を変えることにより新たな失敗を生み、時々の戦いはどちらかの勝利かまたは、ある程度のところで破綻し、瞬間的にあらゆるものが崩壊して、また最初からやり直し、再開される。さながら次の大会に備えるオリンピックのアスリート達の様だ。

この変更の過程を受け持つのはその物語を制作する人々であるが、彼らも主体的であり、その変更はその物語を作る上でより良い作品を作り上げるための必要な過程であるから、全く疑問を抱かず行動している。
通常コストの問題で映像が出来上がったようなほぼ仕上げの段階まできているとその修正内容は現実的に可能な部分だけであるが、この点は夢であることを反映して物語の根本的な部分まで、例えばロケーションや天気、登場人物まで細部に至るまで変更が効く。

これを覚えている限り、五〜六回体験した。

そして目覚めるわけであるが、この瞬間にこれらのことが突然「一切皆空」的なものと出会い新たな理解を俺に授けた。
あさりよしとお氏の漫画「るくるく」では悪魔の一人が高次の存在の体験は案外つまらないものだと言う。
肉体を得て感ずる低次的現世の感覚はとても美しく魅力的であるという。
彼らは高次の存在であり概念であり、そしてある物語りの登場人物、キャラクターである。

彼らは概念や仕組みを通して投影される、ある意味我々人間と同じで、作者の描画や他者からの観測とそれと認識されることを必要とする不変でない「存在」である。
それ以上に、それぞれがある仕組みを通してしかその存在を発現せず、その存在をその仕組みに適切な入力を行うというオペレーションを必要としている。

私が理解する神や悪魔が現身(うつしみ)をもって人の世界に現れ得ず、心に小さくささやきかけるという様な表現でしか現世に登場しないのはそのようなオペレーター的な意味だろうか。

夢に関していえば、ここまで生きてきた中で得た職能的経験値が制作する部分に反映される入力となり、ここまで生きてきた中で見聞してきた物語の経験値が制作物に反映さる入力となり、ここまで生きてきた中で体験したあらゆる感情がキャラクターの行動に反映される入力となった。

一番重要な点は、夢の中の存在、映画制作のスタッフ達と映画の中の怪獣だか悪魔だか神の使徒であるか、それぞれの世界のそれぞれの場所でそれぞれが主体的で別々で利己的な目的のために行動している。
ある者は映画をヒットさせ大きな収入にかえるため、死力を尽くしてありとあらゆる方法を駆使する。
ある者は命題として相手を駆逐することを存在意義とし「遊星からの物体X」や「ウルトラマン」、狼男や吸血鬼並みの激しい変身をしてまでそれを完遂するために苛烈に戦う。なぜ戦うかについては今振り返ってみると理由を理解する場所がなかったように思うが、そういう超越的なものが激突する傍ら、我々にとっての道端の蟻のようにそこにいたというだけで死んでいく人々もあった。
時間的な前後、ある者が決定的に不利になる条件があると、将棋の「待った!」よろしくそれ以前に介入し、その条件を成立させない時系列も不変でないこの物語は複雑すぎて、覚えていることも困難だった

そしてこの夢は総体として、俺に夢を見せ恰も新しい真理の如く一つの解を与え、この文章に帰結するということを行わせている。
それがこのエントリのタイトルとなった。
もしこのエントリを読む人がいてさらなる発展として影響を及ぼすならば、それも含めて夢の結果といえる。

さらに、仕組みは仕組みとして普遍なものであるかといえばそうではなく、夢のことあるごとに改変される物語りのとおり、仕組みも適宜変容し、出力を変える。
この意味でも我々人間と同様だ。
仕組みでさえ主体的に能動し、影響を及ぼす。
高次であろうが低次であろうが、利己的であろうが利他的であろうが、それぞれが他者の入力、オペレーションがなくては存在を顕せないと、ある種「一切皆空」を確認することに至った。
独立不変の存在はない。少なくとも私は見たことがない。

別の話だが先の高次の存在の世界はつまらないという見解にも疑問を持った。
仕組みでさえ主体的に能動するならば、能動する欲求があるはずだ。動き始めるには入力を認識しなければいけない。認識に反応することは欲求の達成であり、複雑であれ単純であれ欲求を達成することは喜びだろう。

人間から見てつまらないという風にとっても、主体的に感ずることをして人の感ずるところ以下のものしかないと思えない。
道具に人の感情を見たてて「こいつもよく使ってもらって幸せだろう。」とか「こんなところに置き去りにしされてかわいそう。」などということを言ったりすることには意外と真理をつくところがあると思えてきた。

タイムマシンを題材にした時間軸への介入する物語はSFの真骨頂だが、時間的概念を戻る方法論を制作者の頭脳にして、藪の中的な進行の物語に音楽をつけたいと思った。

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