世界は広かったはずだ – ongakusatoいつからか、自分の言葉が頼りなく、小さくなってしまった。
それに伴って、気づかぬうちに世界が狭くなった。
ある一定の主観を保ち続けるには、その周囲の空気もすべて保ち続けていなくてはいけない。
自身が自身を保存する主観的世界の中心でなくてはならない。世界を構築する各要素を磁力や重力の様に求心力として集め続けなくてはいけない。
その中心的要素は、自身が属する世界との交信によって培われる確信だ。
多くの役目を持つ人は、その求められる役目によって、その中心的要素をかえていく。
その期間が長くなればなるほど、その世界は堅固になっていく。
自分があたかもスイッチを切り替えるかの様に、世界を移動していくことも困難となるくらい堅固になる。
そして気がつくのだ。
かつて自分が持っていた多重の世界が、なくなっていると誤解するほどに戻れなくなっていると。
そして落胆する。
それが自身の可能性の限界であると。
多くの場合、その限界の様に見える世界を現実と呼ぶ。
それ以外の世界を妄想とよぶ。
実際はその世界に対する認識と、それを変化させうる気付きが異なるだけであるが、ある一つの空間や世界に執着するが故に、自身の異世界を否定する。
だからこそ、自分の世界は年齢を重ねるほどに狭くなっていくのだ。
世界は広かったはずだと嘆息することはあるとして、かつての異世界を取り戻す方法はなんなのか。
それは、ほかの人の世界を見聞体験することだ。
多くの人が娯楽的に旅をし、音楽を聴き、詩を読み、物語を楽しみ、香り、味わう、そのことによって自身の世界を広げ、取り戻す。
単一的に理解してしまいがちなことだが、それぞれの経験が広げる自身の世界は異なる。
異なる世界がそれぞれ押し広げられることが重なり、個人の多重世界を豊かにしていく。
この意味で人の世界は無限だ。
無限に広がる世界を認識することは、自身の充実を確認することだ。
俺はこの多重世界をなんと呼ぶのか知らない。
しかし、この多重世界の中で話す言葉はけっして頼りなくはない。
それぞれが持つ、言い得ぬ芳醇さを感じ、気付き、それに動機づけられていればいいのだ。

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