以前、CCCD関係で書いたエントリーに「あすか」さんという方からコメントとトラックバックをいただきました。
それは、佐野元春自主レーベル「GO4」を応援する趣旨の活動への参加呼びかけでした。
その内容は、「CCCD(レーベルゲートCD2)化を拒み、自主レーベル「GO4」から発売される佐野元春の「in motion2003 増幅」佐野さんに賛同、支援するサイトがこのボタンをサイトに貼ろう、というものです。」ということでした。
CCCDは、とても身近になったコピー技術の乱用を防ぎ、著作権を保護して、本来著作者に支払われるはずの報酬を確保しようという目的で開発されたもののはずです。
しかし、CCCDは著作物の形を変えるものであってはいけないと思います。
前回の自分の論点はそこにありました。
盗難を防ぐ目的で作られた額に収まらないからといって「モナリザの微笑」を半分に切ってしまう美術館があるでしょうか。
たとえ、その作品を使用者が使いやすいように加工する自由は存在していても、その作品を愛する人であればその作品の意味、意思、意義は守られるはずです。
SMEの中には、佐野さんの作品への愛はなかったのでしょうか。
旧来の技術でやりたいという佐野さんの意思は尊重出来なかったのでしょうか。
なぜ、CCCDのこだわったのかは、なんとなくわかる気がしますが、目的と方法の逆転現象は確かに起きました。
自分にとって、これは「著作権は誰のためのものか」をもう一度考え直す良いきっかけになりました。
新しい物を作ることはとても難しい。
それはきっと誰にとっても同じことでしょう。
多くの場合、自分を含めて新しいものを作るにはそれ以前にあるものの模倣から始まります。
そして、その中にある問題点を見つけて改善する、その改善によって出るデメリットも出来れば改善する。
この場合、著作権は問題を改善した労働への対価になるでしょう。
ごくまれに、全くそれ以前とは似ても似つかないモノが現れます。
その本当に新しいモノは、これも多くの場合そのままの形では私たちの前には現れず、既存のものの中に潜ませてあるでしょう。
この場合、著作権は全く新しいモノを生み出したその功績への対価であるでしょう。
またモノをつくるということの中には、既存のものを集めて規則的に並べなおすというやり方もあります。
この場合は、著作権はその労働への対価になるでしょう。
現在日本では、実用新案、発明、編集のような分け方がされていると思います。
私たちは今後、自分たちの手でこれらの管理をしなくてはいけないようになるかもしれません。
あるいは、また新しい著作権の形を創造していかなければならないでしょう。
ともあれ、混迷を極める現代の中で自己のスタンスを保ち続ける大先輩を尊敬いたします。
どうか、皆様にもこのことを知っていただき、意見を交わし合いたいと思います。
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