宅間守の受刑

今日、昼頃テレビをみていたら「宅間死刑囚の刑が執行された」というニュースが目に飛び込んできた。
このニュースは自分の今日一日を支配し続けた感がある。

いったいどのようにして、彼は極刑の執行にのぞんだのだろうか。

ふりかえってみれば、彼がしたことは『殺人』。
逮捕後の言葉を集めてみれば、謝罪や反省はない。
刑が確定してからも控訴すること無く、自ら刑を望んだという。

幼い娘や生まれたての息子を殺されたら、自分は犯人の死を願うだろう。遺族の苦痛を思えば、涙さえ出てくる。尋常ではない、本当に辛く、苦しい。
なぜ、わが子がわけも分からぬまま不条理に殺されなければならないのか。
それを「教えてやる」とは何ごとかと思う。
今日、彼が死刑を受けたことは、当然とさえ思える。

そして彼は望み、望まれて死んでいった。


しかし、彼の姿がテレビにうつるたびに、哀れと思うのはなぜだろう。
なぜ、彼に「謝罪の意味」を教えられる人がいなかったのだろう。
なぜ、「謝罪」を彼は拒みつづけたのだろう。
なぜ彼の生涯に、彼を救える人がいなかったのだろう。

宅間守は狭量で、身勝手で、情けない人物だと思う。
「世の中全部が敵」というのは、彼にとって唯一の真実だったのだろう。
人の痛みなど、感じる必要はなかったのだろう。

だからこそ、哀れでならない。
哀れでならない。

このブログ記事について

このページは、Yusuke Satoが2004年9月14日 22:57に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「自転車さんにおねがい」です。

次のブログ記事は「試聴可能にしました」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。