戦争の伝え方

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友人が同タイトルで、最近感じてたことを親の視点から書いてた。

http://fuyafuya.at.webry.info/200508/article_7.html

こんなもんなのかもとも思いながら、自分が世間に対してどういう意見を持っているか、自分の子どもに伝えるべきか否か、それから伝えるならどの様に、という所でもう一度考えてしまった。

自分が言いたいのは、
「議論の複雑さじゃなくて、本質」
みたいなことだけど、そこまで説明するのは受け取る側の経験が激しく重要だったりするから、難しさ倍増、さらに倍、くらいないきおいだ。

昨日、たまたま近所の駅に来てた、「公立保育園の民間委託反対」の人たちの議論も同様。
本質的に、誰にとって問題なのかうやむやな訴えだった。

政治家や官僚の言葉で流されて、「今いる子どもがかわいそう」と素直に言えないし、陰には「私たちの仕事を持っていくな」という感情もかいまみえるし。
複雑にして曖昧模糊。

世間に流れてる政治的な言葉は本質的な言葉がよく聞こえないし、聞こえないからくだらなく聞こえる。
実際はすごく重要なのに、判断もしづらい。

そんなんじゃだめだよ。
今俺の生きる場所ないんだから、そんなくだらない言葉遣いでお茶を濁してくれるなよ。
俺の生きる場所を返せよ。これから取り返しにいくぞ。
お前らの所へ取り返しにいくぞ!

と叫ぶ。


まあ、とりあえず議論は2点。
1.自分の子どもたちに、
「お前たちの生きる場所を奪われるかもしれない、そんなときに戦争じゃなくてほかの方法で、きっちり自分の場所を守れる様になれ。
そのためにしっかり準備しとけ。」
ということ。

2.自分のために、
「絶対取り戻してやる。」
と、決意表明。かな?

わけわかんない?

コメント(3)

「戦争っていう方法ではなくて」というコメントに共感です。
先日靖国の話になり、同級生の友達が「戦争になったら家族のために戦うよ」なんて言っててびっくりしてしまいました。
そんな考えの人がいるなんてー、、、、

私は心から話し合うこと、が一つの方法として重要だと思ってます。

トラバども、です。
>「議論の複雑さじゃなくて、本質」

に激しく同意です。

本質も話し合うことも、草木群生する先の見えない深森へ分け入ることのように、労力と時間を必要とする現在。

「戦争になったら」ではなく、暴漢に家族が襲われる、暴走車が家族を襲う、突然大地震が起きる、火事になる、そんな日常の危険に対してはどうなのか。
自分はおそらくそれに対して「戦う」ことを選ぶのでしょう。

「戦争になったら」兵士になるのは、それと同じ意味を持つのか、そこら辺が本質なんかな。

このブログ記事について

このページは、Yusuke Satoが2005年8月20日 22:05に書いたブログ記事です。

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